アルゼンチンへ 食文化と移住生活

アルゼンチンに渡った父子の日々の刺激と食習慣のこと

アルゼンチンが近く感じる日々

 

・二年前、アルゼンチンから帰国して

 

それはロックダウンを搔い潜り、日本に戻っただけで終わる話ではなかった。アルゼンチンではロックダウンが延長を重ねて生活が一変してしまったと聞く。

ただでさえ、デフレの影響で穏やかに過ごせないのに加え、このロックダウンは精神面でも影響があるはず。日本に戻れてホッとしたのも一瞬のことで、アルゼンチン国内の状況を追いかける日々が続いた。

 

・アルゼンチンは国境封鎖が続く

 

不思議なもので、行けない場所と聞くと行きたくなるのは男性の心理なのだろうか。自由に観光で行き来できたアルゼンチンは、目的のない入国を封鎖する日々が長く続いていた。

日本にいれば特に不自由なことはない。日本とのギャップを強く感じるようになったのもこの頃だった。50歳という年齢も、将来を考える年齢に差し掛かる世代というのはよく聞く話ではあるが自分自身もそんな足音が聞こえた気がしていた。

 

・人生大器晩成

 

言葉にすると仰々しさしさない。60歳以降の晩年をどう迎えるか、50歳からの一年が重要な位置づけじゃないかと思えてきたのもこの頃。アルゼンチンの国境封鎖の状況は定期的にチェックする日々が続いた。

ハルは一か月弱の滞在、自身は実質48時間しかアルゼンチンにいられなかった。小さな行動範囲でしか得られない景色にも、何か喫するものを感じていたのかもしれない。

 

 

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・コロナ禍での日本のフード業界の状況

 

フード関係に従事していた事情で、混沌とした日本の状況に良くも悪くも影響を受けた業界だったかもしれない。小売り、中小企業関係なく休業や営業時間短縮で補助金が払われていた。

要するに、営業しなくても利益が創出できる仕組み。従業員を雇っていない規模なら、普通に営業する苦労がない。水商売は、赤字の日があってハレの日がある。そのやりくりこそが、商売の本質のあるべき姿なのにその根幹が壊れてしまっていると感じていた。

 

・企業人として生きる道もあった

 

30年以上もお世話になってきた会社勤務。そこで安住するというのは既定路線でもある。ただし、60歳で一定のゴールを迎えることになる。50歳と60歳、肉体的にも精神的にも体力差を考えると、自身の60歳以降をデザインするにはその前の10年が肝になってくると勝手に位置付けていた。

悠々自適である必要はない。ただし、残りの人生を指折り数えることもしたくない。夢中に生きていたいと思うことが、アルゼンチンを近くさせたような気がする。

 

・不便を楽しむことができるのか

 

アルゼンチンの先輩方の共通のアドバイス「安全な場所はないと思え」だった。これが何を意味するのか。道を歩けばコンビニがあって自販機がある日本と違い、歩きスマホは「事件の原因」というのがアルゼンチン。事故ではなく、事件なのがアルゼンチン。

まだ、何も体験していないので謎も多いが、テレビ報道を見る限りスリと強盗のニュースが日々流れている。そんなことが日常なのである。昭和の日本の学校でヤンキーが悪さしていたレベルのことが国内の日常に蔓延っている。

必ずそこには理由があると思っている。不況とかデフレとか大きなことではなく、ゲーム感覚に陥ってないかと思っている。犯罪手口も防犯カメラで日々流されると、リアルなRPGのような感覚で若者が犯罪と思わずに、衝動で行動している気がしてならない。

 

・お互いの国の情勢を観察することにした

 

在日アルゼンチン領事館とお話する機会もあり、「不要不急」の入国は認められないとの返事。要するに観光で入国することはできず、そこには必ず理由が必要であるとのこと。

じゃあ理由を探せばいいのか、そんな気持ちで状況を見守ることにしていた。

すると、変異株(オミクロン)の噂はあったものの、一時的に感染状況が緩和されて日本国内でも、人の日常が戻り始めたのが東京オリンピック2020が2021年に開催されるという不思議な出来事の直後だった。