- ・それは希望と不安の錯綜する日々
- ・ロックダウンがどういうことなのか
- ・チャーター便が飛ぶという情報
- ・そして、帰路に就く日が決定した
- ・でも、アルゼンチン国内は外出禁止
- ・ホストファミリーから出発完了のメール
- ・そして、無事日本に帰国した
- ・日本で最初に食べたいものは?
- ・そして、自身も2週間の隔離生活
・それは希望と不安の錯綜する日々
ある意味、10歳のアルゼンチン単身武者修行は順調でもあった。日本は全ての機能がストップして、明日が見えない状況。リモートワークや外出自粛のお願い等、日々のニュースが彩る話題はネガティブなニュースばかり。
そして、一人アルゼンチンに残った10歳のサッカー留学は同世代のフットサルで盛り上がりを見せていた時期でもあった。
サッカーについては申し分のない環境、スペイン語しか通じない生活は確実に彼の経験値に刻まれていることしか期待できなかった。
・ロックダウンがどういうことなのか
そしてロックダウン。曖昧な情報しかなかったが、ロックダウンとは外出すると法的に罰せられるという外出禁止の強制発動。しかも国境は封鎖ということは、航空便は全てストップするという状況。
幸運だったのは、航空券を手配した代理店がアルゼンチン事情に精通するプロフェッショナルだったということ。日本の大手の代理店だったら、何の策もないまま指をくわえてみているしかなかったことも覚悟していた。
逐一、アルゼンチン側からの情報が入ってくる。国境は封鎖されているが、航空便は100%なくなっているわけではない。情報は錯綜しているが、観光理由による移動が封鎖されているだけであって、まだ全ての手段がなくなったということではなかったのだ。
・チャーター便が飛ぶという情報
その代理店から、チャーター便が飛ぶという情報が入った。それは国内で足止めにあった留学生や駐在員に向けての緊急手段として、手配されたものだった。
代理店の機転のおかげで、即時に帰路の航空便を手配変更手数料がかかることを承知の上で、代理店の判断で航空券を抑えてくれたとのこと。
しかも、航空券は即時完売。そのタイミングを逃していたらどうなっていたかはわからない。10歳という未成年の一人だけのフライト。航空会社の付き添いサービスもあるということで、トランジットで足止めになる不安もないとのことだった。
そこに委ねるという代理店の判断に不安はあったが、信じる以外に方法がない。その日程に向けてできることをやるという結論に至った。
・そして、帰路に就く日が決定した
10歳男子にとって、ロックダウンが何かもわからないままの日々。いつも出掛けていくホストファミリーがずっと家にいることが不思議だったと言っていた。サッカーも行かなくなったから、長い休みなのかと思っていた程度の認識だったのもありがたかった。
本人に帰りのフライトのことを伝える。予定よりも5日くらい早い帰国になっただろうか。10歳にとってはラッキーな情報でしかなかったであろう。日本に帰れる日が早くなったということは、ロックダウンがラッキーだったという認識だと思う。
・でも、アルゼンチン国内は外出禁止
次の問題が発生する。航空券は手配できたものの、アルゼンチンは外出禁止。ということは、空港までの移動をどうするのかという問題。ホストファミリーが罰せられることは本望ではないが、他にお願いする手段がない。
在亜の日本大使館に、理由を明記した外出許可証明を発行してもらう必要があった。出発までは数日しかない。ロックダウン中なので、大使館に人がいるはずもなく、この手続きに時間を要してしまった。
しかし、その許可証明を通行手形に外出する以外に空港に向かう方法はない。小学生を預かるホストファミリーも複雑な思いだったであろう。これを逃がすといつ日本に帰れるかわからないという状況だったのだから。
結局、オンラインで仮申請する形で許可証を発行して空港までお送りいただくこととなった。当時の状況は知る由もないが、高速道路の物々しい警備の中での移動は異空間だったことは容易に推測できる。
・ホストファミリーから出発完了のメール
空港チェックイン直前のホストからの画像メールが届く。別れを惜しむ笑顔の写真に手が震えた。ロックダウン、しかも厳戒警備の中の気が気でない状況での移動だったはずなのに、こんな笑顔で見送ってもらえることに感謝しかなかった。
もうこの時点で、ここに帰ることを決めていたのかもしれない。「どうしてこんな時に・・」って思うこともあったはずだし、大変な思いをさせてしまった申し訳なさもあって、この笑顔の写真を直視できなかったのを覚えている。
・そして、無事日本に帰国した
出発してからは、フライトレコーダーで足跡を追いかけて到着を待つ。到着の成田空港に迎えにいく道すがら、「もし到着しなかったら」の不安がなくなることはなかった。
人の気配の少ない成田空港は異様な光景だった。当時はハワイの感染爆発があり、ハワイからの帰国便の検疫がすごく時間がかかっているのがわかった。
出迎える場所でも人の数が少ない。しかも、帰路には公共交通機関が使えない等の噂もあったり、そのまま隔離扱いされるとかのデマ情報もあったが、何事もなく待つことができた。
そして、予定の便が到着すると航空会社のスタッフとともに、ゲートから出てきた。30時間のフライト、移動の疲れから涙はなかった。しかも、機内で一緒だった某大学の留学生がずっと横で話してくれていたというラッキーもあった。
本人は機内でのストレスを感じることなく、日本に帰ってきたのである。ロックダウンも飛行機の移動も、人の支えが途切れることなくその時を迎えられらのだ。
・日本で最初に食べたいものは?
母親は仕事の都合で迎えには来られなかった。最初に聞くことは決めていた。「何が食べたい?」であった。こちら側の予想はラーメン、寿司あたりだと思っていた。それが何と予想に反して「骨のついた肉!」との言葉。肉の美味しい国から帰っての一言に彼らしさを感じた瞬間だった。
家についても、サッカーの遠征帰りくらいのテンション。あまりのいつも通りっぷりに親としては拍子抜けしたが、それだけ不安を感じることなく過ごしていたという感謝が込み上げてきた。
そうは言っても、アルゼンチンはロックダウン中。この後、延長が続いてほぼ1年の外出自粛だっただろうか。絶対に恩返しがしたいという気持ちだけが強くなっていったことを覚えている。
・そして、自身も2週間の隔離生活
当時の日本は過剰な水際対策の真っただ中。勤務していた会社に事情を話すと、「状況を鑑みて2週間の自宅待機」との指示だった。そう、同居家族に海外渡航者がいる場合、隔離することがガイダンス上で決まっていたことからの処置であった。
不安だった日々から一転しての、自宅待機生活。隔離施設でなかったことはラッキーだったが、自身の今後を見直す有意義な時間だった。
小学校も休校しているし、いずれにしても家に子供一人でいるくらいなら丁度いい。この自宅待機が「有給」と言われたことが、不思議でならなかった。でも、数日経過して「公休扱い」と連絡があったことを思うと、日本だけでなくいろんな場所で混乱を極めた時期だったことを思い出す。